「テラビシアにかける橋」を見る
映画の日ってことで、映画館に行って「テラビシアにかける橋」を見てきました。
最初は「スウィーニー・トッド」と迷ったんですが、ヒットしてるっぽいのでロングラン上映するだろうから、早々に上映時間が短縮されそうな「テラビシア」にしてみたんですが、これが。
内容は、主人公は空想上の絵を描くのが好きな学校ではちょっと浮いている少年。
学校ではいじめられていて、家では逃げたいだけの現実しかない毎日を送っていた。
そこに転校生であるヒロインの少女がやってくるんだけど、その女の子は人より感受性が豊かなタイプなため、すぐに学校で浮いてしまう。
たまたま近所同士になったこともあり、そんなふたりは当たり前のように距離を狭めていく。
ふたりの近所には普段人が近づかない森があり、そこに渡るには垂れ下がった古いロープでターザンのように飛び込むしかなかった。
危ないと言う少年に、少女は想像力のある言葉をつむぎだし、ふたりだけの夢の王国がそこにあると言って少年を一緒にその森にいざなう。
やがてふたりは森のちょっとした変化や揺らめきを、自分たちの王国の敵に見立てたり兵士に見立て、嫌な現実から逃げられる唯一の楽園に仕立てていく。
ただ、少年には常に現実が付きまとい、それは生活の深刻さばかりを口にする親ばかりではなく、邪魔ばかりする妹だったり、恋心を寄せる音楽の先生が、その夢の王国からの離反を促す。
あるとき、音楽の先生から美術館を見に行こうという誘いを受け、一瞬少女もそれに誘おうか悩む少年だが、デート気分を優先しふたりだけで出かけることに。
夢のような時間が過ぎた後、舞い戻った我が家ではいつも以上の現実が待ち受けていた。
それは、少女が死んだという突然の報。森に渡るロープが切れて落下し、頭を打ってのことだという。
少年は、美術館に誘わなかったことを後悔し、自暴自棄になるのだが、そこで少年に手を差し伸べたのが嫌な現実ばかりを見せる大人たちだった。
というような話なんですが、もっとよくなる要素があった惜しい映画だなぁと思ったんです。
まず、少年が人とは変わっているという設定が弱いんですよね。単に絵が好きってだけしか描写がないので、なんでいじめられているのかがどうも。しかも、運動会のシーンで足が速いなんて勝ち組要素の描写をしちゃっているから、日本人には余計にピンとこない。
少女も少女で、もっと突飛な言動を表立って見せてくれたらキャラが立って見えたんですが、それも作文の発表会で優れた才能を見せたくらいの描写なんですよねぇ。
で、少女の言葉で王国へのイメージが膨らむって展開はいいんですが、そこで少年の絵の能力でさらに豊かさを持つなんて相乗効果があったら面白かったのに、そこまでの表現はしてくれず。
また、CGで少女の言葉に呼応して森の風景がファンタジーなものに変わるんだけど、それが微々たるものだったり、具体的過ぎたりと、もっと見せ方があったんじゃないかなぁと。
さり気なさの加減ってあるだろうし、大胆でクリエイティブな置き換えもできたろうし、なんというのかそこでもっとワクワクさせて欲しかった。観客も夢の王国に連れ去って欲しかったというのか。
なにより最後のオチが、ロープが切れて少女もいなくなり王国に渡る魔法もなくなったとなるのかと思ったら、今度は少年の妹が新しい姫として王国に迎えられたなんてものなんですよね。
いやいや。悲しいときに支えてくれた大人たちによって導かれるんじゃないのかと。それが大人の階段ってやつじゃないのかと。
そういう、ところどころでの繊細さに欠けていて、もったいないなぁとなったんですが、きっとPTA的な発想が好きな大人にはウケがいいんだろなぁ。一見、夢があって愛がある感じがするから。
でも、最後の少女の死で悲しみにくれる時に優しくしてくれた大人たちだけど、そんなのにだまされんぞぉと思ったわけなんです。
そんな分かりやすい状況だけじゃなくても、少年は普段から傷つき寂しかったんだから、そういうのにこそ気づいて欲しかったわけで。
子供だましはダメで、大人たちの馴れ合いもダメだと、そういう大どんでん返しがあったなら、この映画は名作になったんじゃないでしょうか。


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投稿: ISHMAel back | 2008年2月29日 (金) 19時17分
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投稿: ISHMAel back | 2008年2月29日 (金) 19時17分