ゴーギャン展を見に行くの巻
名古屋のボストン美術館にゴーギャン展を見に行きました。
個人的にはそれがやっていることすら知らなかったんですが、母親が誘ったので乗っかってみたって感じです。
どうやら母親の中では自分が絵画好きってことになっているみたいで、なにかとこの手の展覧会に誘い出されるですが、別に趣味で絵を描いているわけでもなければ、好きだって言った覚えもないんですけどね。
それとも、絵を見ているときの自分が楽しそうなのかなぁ。
今回の目玉は有名な「我々はどこから来たのか 我々は何者なのか 我々はどこに行くのか」。
ゲーセンのクイズゲームでこの並び替え問題があってミスったことがあるけど、ようやく覚えることができました。
もちろん、その絵にたどり着くまでにも色々と見られるんだろうなぁと思っていたんですが、これがちょっと残念な感じで、期待ほどのものがなかったんですよねぇ。
しかも、案外岐阜県美術館から貸し出されたものが多くて、それならわざわざ金山まで行かなくてもよかったじゃんとも思ったりして。
って、岐阜県美術館で見ていたらそれほどありがたみを感じなかったんだろうけど。
でも、それはそれで感じ入るものがあって、ひとつはゴーギャンが絵を描いていた時代なんて、たかだか120~130年前のことなんですよね。
人一人分の人生といっては大げさですが、伝聞で十分に近い記憶として伝わっていてもおかしくない距離感の話なんです。
それが、絵で表現されている世界は遥か昔のようなのどかさで、自分の感覚では現代とまったくもってつながらないほどの遠さを覚えたんです。
そして、そんな時代背景があるからゴーギャンもこんな絵が描けたんだし、当時における歴史の積み重ねがもたらした空気感がタヒチへの憧憬を呼び起こすような行き詰まりになり、ゴーギャンをゴーギャンたらしめたと。
だから、「我々は・・・」を見てなにより思ったのは、自分も絵を描いてみたいってことだったりしたんです。
そこにある衝動が、本当に小さい頃にあった絵を描く楽しさを思いださせたというのか。
自分なんかが表現できることと比べては失礼なのは当然なんですが。
そして、絵を見ながらふと思ったのは、飾られている横に解説文があったのですが、それが果たして正解を語っているのかってことであり、なんならそんなことを言う権利があるのかってことだったりして。
素人がプロ野球選手に文句をつける関係というのか、その領域に手が届かないくせに分かった風なことを言うなって部分があるよなぁと。
特に、昔の有名な画家ほど試行錯誤の末に名前を残すほどの革新性を見せた格があるわけで、それを現代のそこらの絵画の専門家が口出しするのはどうなのよって思ったりして。
まぁ、それが商売なんだから分かったつもりにならないとやっていけないってのものあるのでしょうけど。
ただ、いままで見た展覧会の中では最も作品数が少なくやや拍子抜けしたのも事実なので、頼むよ一発と思わないでもないのでした。
客もごった返すほどじゃなかったしねぇ。


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